東京地方裁判所 昭和42年(ワ)7467号 判決
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〔判決理由〕三 損害
(一) <証拠>によれば、義孝は、昭和二三年五月二四日生(事故当時一八才)で東京都立田園調布高等学校三年在学中であり、健康状態、成績も良かつたので都立大学に進学する希望を有していたことが認められ、本件事故がなければ昭和四二年四年に大学に進学し、昭和四六年三月には卒業出来たものと推認できる。<証拠>によれば、昭和四一年度のモデル賃金調査の二二才の大学卒業者のモデル賃金は二四、六二二円であり、大学午業者の各年令一年当り平均昇給額は二二〜二五才一、九五六円、二五〜二七才三、三二七円、二七〜三〇才二、九〇六円であり、三〇才を越えるものについても五五才まで各年令につき昇給があることが認められる。これによつて考えれば、義孝は昭和四六年四月から毎月二四、六二二円の月収を得ることができ、毎年昇給し、二五才のときに三〇、四九〇円、二七才のときには三七、一四四円、三〇才のときには四五、八六二円の月収を得ることができたものと推認できる。しかして、<証拠>によれば人事院調査の昭和四一年東京における独身男子標準生計費は一六、六五〇円であつたことが認められ、義孝が二二才より二九才までの間の生計費は右と同額程度のもとと推認される。三〇才以後の生計費については、同年令のときの月収四五、八六二円の四割に当る一八、三四五円の程度とするのが相当である。そして、二二才より二九才までの間を二二才の月収により、三〇才より六〇才までを三〇才の当時の月収によるとする原告の控え目な計算方法により、右生計費を控除すれば、二二才から二九才までの純損額は毎月七、九七二円(毎年九五、六六四円)、三〇才から六〇才までは毎月二七、五一七円(毎年三三〇、二〇四円)となる。これを死亡時である一八才のときに一時に請求し得る額を算出するためホフマン式年別複式計算法によれば四、七九九、一八五円となる。原告義満、同ミサは義孝の父母であること当事者間に争いがなく、相続人として右各二分の一である二三九万円(一万円未満切捨)宛相続したものといえる。(荒井真治)